○大月アニメ
キングレコード、大月倫俊プロデューサーによる一連のアニメ群。
あまり意識されていないが、80年代末から90年代、そして2000年代の現在に至るまで、いわゆる「オタ向けアニメ」の大半がこのキング・大月ラインで制作されている。
「ブルーシード」「テッカマンブレード」「爆れつハンター」「ラムネ&40」「赤頭巾チャチャ」「スレイヤーズ」「エヴァンゲリオン」「ナデシコ」「セイバーマリオネット」「少女革命ウテナ」「アキハバラ電脳組」「ロストユニバース」「シャドウスキル」「トライゼノン」「ラブひな」「フルーツバスケット」「シャーマンキング」「RAVE」「彼氏彼女の事情」「フリクリ」・・・もういいだろう。
一般に、大月商法とは、こういったオタ向けにそれなりのヒットが狙えるライン(角川一押しの人気原作など)にお抱えのオタドル(林原めぐみなど)の主題歌を乗せてシングルからサントラまで売りさばくといった認識だと思うが、大月プロデュースに関する分析はこれだけでは不十分である。人気原作と人気声優の抱き合わせだけならば、キング抜きでも簡単に成立する手法である。しかし、ビクターもパイオニアも90年代を通してキングレコードにはなれなかったのだ。なぜならば「大月商法」とは、そのプロデュースするアニメ作品が「大月アニメ」と呼んでも差し支えないある種の共通項を孕んでいてはじめて成立するものだからである。もう少しわかりやすく言えば、「大月プロデューサーの制作は、そのアニメ作品の内容にまで深い影響をもたらしており、それらのアニメは<大月アニメ>として内容的に括ることが出来る」ということである。ビクターもパイオニアも、その辺の分析と追随が足りなかったのではないだろうか?
では具体的に「大月アニメ」とは何か?
説明に入る前に90年代以降のキングレコードのオタ向け戦略を「第一期」「第二期」に分類してみよう。
第一期とは「テッカマンブレード」「ブルーシード」の初期大月制作アニメから「エヴァ」「ナデシコ」「スレイヤーズ」の「御三家」を経て99年(だったっけ?)の「トライゼノン」辺りまでの作品群で、主に「第三次アニメブーム」の退潮までの各作品を指し(「ラムネ」「セイバーマリオネット」「爆れつ」「ウテナ」「アキハバラ」「ロストユニバース」)比較的オリジナルアニメが多い。
それに対して第二期とは主に「ラブひな」以降の音羽一橋の人気連載漫画のアニメ化をキングが提供するかたちで制作されるタイプのもので、「フルバ」「封神演戯」「RAVE」「遊技王デュエルモンスターズ」など、2000年代の大月制作は基本的にこの形式にシフトしている。
第一期大月アニメの特徴とは何か。
それはおおよそ以下の数点に集約される。
1 基本的に「オタク向け」、とりわけ「オタク第3世代(1980年前後生まれ)向け」アニメであること(設定、絵柄、スタッフなど総合的な意味で)
2 そのキャラ配置、デザインがオタク向けのオナペットとして機能するように設計されていること(貞本義行キャラデザの大月アニメは考えられるが、原哲夫キャラ原案の大月アニメは不可能である)
3 にも関わらず、いわゆる「ミーハーな」展開(天地無用の初期OVAのような)はとらないこと。必ずシリーズ後半はシリアスに盛り上がり、ブンガク的な自分語り系ストーリーが挿入されることも多い。
4 お抱えの声優・アニメ歌手の起用。主題歌はタイアップ抜きのオリジナル曲が使用され、サントラの販売を前提に劇伴が組まれる。
5 そして彼女らの歌う「頑張れソング」の世界からはみ出さない世界観を守ること。
6 角川を中心とした強力なメディアミックス体制をもつこと。
7 基本的に「男女兼用」であること。
このうちおそらく1、4、6は大月キング体制以外でも行われてきたことであり、大月アニメ第一期の性格を決定づけるのは2、3、5、7の4点である。
2に関して言えば、このことが大月アニメと他のオタク向けアニメとの峻別を難しくしている。おそらく大月アニメである「ナデシコ」の絵柄と、非大月アニメである「エクセルサーガ」の絵柄とをアニメに興味のない人間に見せたとき、反応は同じ「ああ、オタク向けね」だろう。これは少なくともキングレコードサイドには、どれだけサブカル受けしても、重苦しい題材を扱っても、自分たちはオナペット産業であるという明確な自覚の下に仕事が行われていることを意味している。どれだけシリアスにもりあがっても、「パトレイバー2」のような絵柄での大月アニメは絶対にあり得ない(オタクの性愛の対象にならないから)。
3 にも関わらず、大月アニメはどんなにコメディ色の強い作品でも、必ず後半はシリアスに盛り上がる(「スレイヤーズ」「セイバーマリオネット」)原作がギャグ一辺倒なら強引に挿入する(「爆れつハンター」) 90年代大流行していた「ホントのぼくって」系の「自分語り」系ストーリー(中学生日記的ストーリー)の挿入も、他のオタク向けアニメに比べるとびっくりするほど多い(「エヴァ」「ウテナ」「ナデシコ」)。
ここが大月アニメ最大の味噌である。
岡田斗司夫はエヴァ騒動の当時「エヴァは、悩みの少ない世の中に『悩んでみたい』人が多かったから受けた」みたいなことを言っていたが、このことに関して一番敏感だったのは間違いなく大月倫俊プロデューサーである。
オタクにはなんだかんだで(どれだけ仲間内で偽悪趣味を披露しても)根はマジメな連中が多い。とりあえず衣食住の心配はない今の世の中でマジメな連中はついつい「本当の自分って」みたいなことを考えてウットリきてしまうことがどうしても多くなってしまう(目的のアノミーに陥ると、どうしてもねぇ)。これはオタ業界に限らず90年代の文化的状況全体の傾向だったのだが(例:文学のブンガク化)大月Pはそのことに非常に目ざとかった。だから大月の仕事は基本的にアニメのプロデュースでも、オタ向けアイドルのキャラ売りでも、すべてこういう「自分語り系」(自意識過剰系、ブンガク系)ストーリーの挿入で決定づけられる。林原めぐみの「価値観」語り、ナデシコの主人公が悩むアイデンティティ・クライシスは大月Pが確信犯的に散りばめた、他のオタ産業と差を付けるための「魔法のふりかけ」である。
5 そしてこの「自分語り系ストーリーの挿入」が絶大な効果を発揮するのが、それらがまさに「ブンガク」同様実質的には機械的に構成される「オタ転がし」の要素であり、村上春樹の近作のように「出口(だいたい「癒し」とか「かすかな希望」)の最初から見えた迷路」=完全な予定調和の中に収まってしまっているからである。
代表例)自分の存在意義について迷う→誰かに必要とされてるよ! みたいなオチでの癒し
意地悪な言い方をすればキングのお抱え声優がラジオで富野作品や押井作品を語るのは学力的に不可能だが、大月アニメなら可能である(だって事実上みんな同じ予定調和の上を滑走してるんだからねぇ)
そしてこうして語られる「自分語り系予定調和」は、あの手この手で「がんばれソング」のバリエーションを量産し続ける大月アイドルたちの歌世界とほぼ完全にマッチするのである。
これはつまりアニメにせよ、声優のキャラ売りにせよ、大月Pが「今のアニメファンが真剣にハマっちゃうのはこれくらいのレベル」という、予定調和の位置を確信しているからに他ならない。大月Pのしかける予定調和とは、「(意地悪な言い方をまたすれば)アニメファンでもこれくらいのレベルなら背伸び抜きで真剣に作品論語れちゃうだろ」というレベルに作品のテーマを設定する(または企画時に選定する)戦略に他ならない。
大月アニメのファン・・・例えば劇場版「ナデシコ」に感動したファンには「ナデシコは一見美少女アニメだけど、実は結構人間にとって大切なことを教えてくれる作品なんだよ」みたいなことを思ってるファンは意外と多いのではないだろうか?TV版のナデシコで言えば「昔のロボットアニメみたいな、絶対正義って胡散臭いよね」などと今時小林よしのりでも言わないような大前提をしたり顔で「読解」するファンが結構いたのではないだろうか?
この「ただの美少女(美少年)ものじゃないぞ」と思わせる程度のシリアス度、テーマ性に誰でも「読解」できてしまう程度の予定調和レベルの組み合わせこそ、大月アニメをもっとも定義づけるものである。
大月アニメ=「オナペット産業に忠実なキャラ設定」+「ブンガク的なホンモノ感の演出(自分語り系ストーリーの挿入など)」
と、言ってもいいかもしれない。
7 大月アニメが「男女兼用」なのはこの「ブンガク的なホンモノ感の演出(自分語り系ストーリーの挿入など)」によって作品世界に現れる予定調和の結び目が、丁度林原めぐみや小森まなみが歌う「ガンバレ節」の世界観の上に乗っかるからである。そう、「ガンバレ節」に男も女もないからだ(笑)
ウソだと思うなら上記の第一期大月アニメ群の終盤の、クライマックスの「テーマっぽい台詞」を単語帳に抜き出してシャッフル。適当に林原なり小森なり奥井なりの歌詞にに会わせて聞いてみるといい。多分、どんな組み合わせでもしっくりくるはずだ(笑)
この程度の「ガンバレ節」「自分語り系癒し」が如何に機械的に(ブンガク的に)生産されているかわかるだろう。
そして、90年代の10年間「これは一見美少女アニメだけど実は」とオタクのハートを鷲掴みし、「やっぱり俺もがんばって生きなきゃ」と元気にしていたのは(元気にするのに「丁度良かった」のは)「この辺りに予定調和の結び目を持ってくる」大月制作だったことの意味は重要である。(例えば今日の「泣き」ギャルゲーの隆盛は明らかに大月文化の影響下にある)
では「第二期」大月アニメは「第一期」と比べてどのように変化したのか。
それは以下の2点に集約される。
1 オリジナル企画ではなく音羽・一橋の有名原作のアニメ化であること。
2 アニメ作品自体のヒットを必要としていないこと。
これは実に単純な話である。
エヴァのヒットによって発生した「第三次アニメブーム」は98年下半期辺りからオリジナル企画のヒット作品に恵まれず退潮して行くが、この動きにもっとも敏感だったのがブームの火付け役だったキングレコードだった。
アニメブーム自体が退潮すれば、「エヴァ」「ナデシコ」「スレイヤーズ」のようなメガヒットはのぞめなくなる。キングレコードの主力商品はあくまで「CD」なのでよくよく考えてみればプロデュースする「アニメ作品」自体が面白い必要はなく、早い話が第一期で掴んだ林原めぐみなり堀江由衣なりの固定客を逃さなければいいだけの話である。
こうして考えてみたとき、レコード会社「キング」としては、当たりはずれの大きいオリジナル企画より、同じオタ向けアニメでも、すでに人気の高い大手出版社の人気原作漫画をアニメ化した方が「安全」である。
繰り返すが「アニメ作品自体」で儲ける必要はキングにはなく、林原が「東京ブギーナイト」でアフレコ裏話が出来て主題歌CDの巨大CMとなってくれればいいのだから「アニメ」自体はローリスクローリターンであるに越したことはないのだ。
もともと「作品世界に会わせて作詞しました」と言いながら似たり寄ったりのガンバレソングを売っていた(作品自体が実は似たりよったりだったのだから当然だ)のだから「オリジナルアニメ」をやる必要はいよいよ無くなってきたのである。
こういった大月アニメの「思想」はアニメの作品論というよりはむしろ、キングが80年代後半から心血注いできたオタドルのキャラ売りからのフィードバックが大きい(自分語りによる「ホンモノ」感の発生、オリジナルとしての「魅力的な実体」の放棄)のだが、それはまた別の機会に詳しく論じよう。
「アニメには批評がない」と言われ初めて久しいものだが、「エヴァ」騒動を通してサブカル連中があれだけすり寄ってきた後でも状況はあまり変わっていない。その証拠に今でも「○○監督のアニメは」みたいな「作家論」だけでアニメ作品が語られてしまうことが多いが、そういったことが通用するのは多分、押井守までだろう。
「大月」という視点を導入した瞬間に、「エヴァ」も「ナデシコ」も、ヤマトの孫でありガンダムの子供である以前に、「爆れつハンター」と「スレイヤーズ」の兄弟姉妹であることが明らかになるのではないだろうか?(文責:上原)
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